stoicのポケモンGBAメモ帳(二)

ポケモン第二世代、第三世代について主に考察するブログ。

ブログ開設10周年記念記事:『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の感想と『進撃の巨人』に共通しそうな「家族」という概念について

当ブログ「stoicのポケモンGBAメモ帳」開設10周年を飾る記念すべき記事だが、ポケモンとは全く関係がない。
※この記事には『シン・エヴァンゲリオン劇場版』および『進撃の巨人』最終回までのネタバレが含まれます。


~~~以下『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のネタバレを含みます~~~







~~~『進撃の巨人』のネタバレはまだありません~~~







~~~以下『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のネタバレを含みます~~~







~~~『進撃の巨人』のネタバレはまだありません~~~







~~~以下『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のネタバレを含みます~~~







~~~『進撃の巨人』のネタバレはまだありません~~~






シン・エヴァンゲリオン劇場版の感想

シン・エヴァンゲリオン劇場版はこれまでの『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』『新世紀エヴァンゲリオン』(それぞれ新版、旧版、と呼ぶ)を総括する最終回として素晴らしい出来だった。
物語として良いなと思った点を、各キャラとシンジの関係性だとか、旧版との差に注目しつつ述べていきたい。
以下若干小難しいことを書くが、ヱヴァンゲリヲン新劇場版という作品は戦闘シーンが超かっこいいし女の子が全員かわいいのでとても好きな作品である。

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↑ということを伝えたいアイキャッチ用画像。(【公式】ダイジェスト これまでの『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のスクショ)
「心の壁で隕石落下を食い止める」という滅茶苦茶カッコイイシーンである。
この直前で初号機が音速を超すシーンもいいですね。

シンジとミサトの物語としてのシンエヴァ

シンジとミサトのもともとの関係は「年の離れた同居人/上司と部下」というものであるが、『Q』を何度か見返して思ったのは「シンジは旧版と比べてかなりミサトのことを想っている」ということである。
この気づきは『Q』の中では、主に次の2つの場面に集約される。


セントラルドグマに第13号機が降着する場面
シンジはカヲル君に導かれ、エヴァMark. 6と同化して変わり果てたリリスを見るわけだが、シンジのここでの感想は中々示唆的である。
シンジ「これがリリス...」
カヲル「だったものだ。その骸だよ」
シンジ「ミサトさん、命がけで守ってたのに...
シンジは『序』の終盤でミサトさんが見せてくれたリリスと、ミサトたちがそれを守るために命がけで働いている、ということをちゃんと覚えているのである。
作中のシンジの主観時間では数か月も経ってないから当然と言えば当然だ。
なおシンジが『序』の時点でリリスを見せられて、戦っている目的を知らされる、というのは、旧版と新版の変更点である。*1


②槍を抜く場面
ここでもシンジは少々不思議なことを言う。
シンジ「カヲル君のために、みんなのために槍を手に入れる。そうすれば世界は戻る。そうすればミサトさんだって...
日本語は、重要なことを後回しで言う言語である。
つまりシンジにとって槍を手に入れる目的は、みんなのためでも、世界を戻すためでもなく、ミサトさんのためなのである。
ミサトさんだって」何なのか?は語られないが、「ミサトさんとのやり取りを大切にしている」ことを念頭に置くと、「喜んでくれる」「認めてくれる」あたりだろうか。


なおミサト側もシンジのことを滅茶苦茶気にしている。


③ヴンダーでのやり取り
ミサトは、逃亡するシンジのDSSチョーカーのスイッチを押せない。*2


④ヴンダーにとりついたMark. 09が排除された直後
リツコ「艦長!主機が復元されるまでは無理よ」
ミサト「くっ...シンジ君...
わざわざ解説するのも恥ずかしいが、こういう土壇場のシーンで名前が出てくるというのは明らかに相手のことを強く想っているためである。
*3


「土壇場でお互いのことを想っている」という点からQの時点で、新版ではシンジとミサトの関係性が大事なのかな、とぼんやり思っていたのだが、『シン』ではシンジと瓜二つの加持リョウジくん(息子)の登場などを通して「母としてのミサト」が想像以上に明確に描かれることになる。
ミサトをシンジの母代わりとすると、加持リョウジ(父)はシンジのお父さん代わり、ということになる。
たしかに「社会科見学」と称して研究所に連れていったり、シンジを農業を手伝わせながら「ミサト(=加持の嫁)を守ってくれ」と告げるシーンなんていかにも父親じみている。
父にとって、自分が死んだ後でも最愛の人=妻を守ってくれるのは子供なのだ。


ここで旧版のことを思い返してみると、旧版のシンジとミサトの関係は「親子感」がかなり薄い。
旧版でミサトがシンジに最期に遺したのは「大人のキス」である。
お母さんはそんなことしない。
またこれに対し、シンジはほぼ何の反応も返せないままミサトと死別してしまう、という別れを迎えた。
シンジはミサトの死に奮起するでもなく(物理的にできなかった、というのもあるが)勝手に動いたエヴァに押し切られる形で初号機に乗ることになる。


しかしシンエヴァにおいて、旧版ではミサトのキスをただ受けるだけだったシンジは、ミサトとの死別の時、お互いを抱きしめ合うことができた。
そして「いってきます」「いってらっしゃい」と挨拶(おまじない)を交わして別れることができた。
いやぁ良かった・・・(急に語彙力壊滅)

その他の主要キャラクターの結末

自分にとってはここまで書いてきた「シンジとミサトの関係」「家族愛」がシンエヴァのテーマとしてはだいぶ大きなもので、この記事のテーマでもあるのだが、他にも良かったシーンは色々とあるので軽く振り返っておきたい。


・周りの人間もハッピーエンドを迎えた
旧版では大けがをしたり漫画版だと死んだりしていたトウジはその運命を免れ、ヒカリと幸せな家庭を築いたし、旧版ではよくわからないままフェードアウト?したケンスケは逞しく成長してアスカとくっつく*4


マリルートだった
「ヒロインはレイなのかアスカなのか」というのはエヴァの永遠のテーマだった。
しかしそこに第三の選択肢であるマリが介入し、うだうだと続いているオタクの論争を全て叩き潰しながらメインヒロインの座をおっぱいの大きさにモノを言わせてかっさらっていく、というのが非常に痛快で良かった。「エヴァを完結させる」という強い意志を一番感じた部分である。


・アスカはシンジと友達になれた
アスカがケンスケのことを「ケンケン」と慕うようになった経緯は物語の中で特に描かれないし誰も言及しない。トウジ×ヒカリと同様、二アサー後の14年間で色々あったのだろう。
何があったかいちいち言及されないというのは非常にリアルな人間関係の描写であり、これも地味ながら良かったなと思う。所詮人間は相手のことや人間関係、経験、その全ては把握することはできないし、わからなくても別に大丈夫なのだ。
これを踏まえつつアスカとシンジは「一時期お互いのことを好きだった異性」としてほどほどの距離感で和解する。アスカの病床でオナニーしたり試しでキスしてみたり首を絞めたりと乱れまくっていた旧版の関係からすると大変な進歩であり、作中何度も登場する「ヤマアラシのジレンマ」のように程よい距離感を見つけることに成功した、という観点で二人の物語はきっちりハッピーエンドで終わったと言える。*5


・レイは人間になれた
新版では、使徒が倒されると虹がかかる、という演出がある。
んで、『序』でレイの部屋に踏み込んだシンジにレイが押し倒されてしまう(笑)場面、なぜか虹がかかる。
拡大解釈すると、「倒されたときに虹がかかるのは使徒、つまり人間ではないので、序の時点でのレイは人間ではない」と言える。
旧版のレイは空中浮遊したりクソデカ綾波レイになったり羽が生えたりして最終的にシンジの願いを叶える神様になってしまった。
しかしシンエヴァでは「人になれたレイ」というものが描かれる。
「髪が伸びるのはヒトである証」らしいので、14年でめっちゃ髪が伸び、肉体がLCLとなってもなお第三村での経験をきちんと覚えているレイ*6は、色々な経験を通して、人になれたのであった。
よかったよかった。
あと「レイがシンジの目の前でLCLになる」イベントをきっちり消化しつつ、単に精神ダメージを与えた旧版と違ってシンジが復活するきっかけとして描写されていたのも良かった。


・ユイは死んだ
シンジ&ミサト&加持さんの疑似親子関係に呼応するように、シンジ&ユイ&ゲンドウの実の親子関係も旧版から新版で大きく進展する。
特にユイというキャラクターの結末は旧との相違点として地味ながら重要だと思った部分である。
旧版のユイは、初号機の中で永遠に生き続けるという結末を迎える。
エヴァ=イブの中の人であるユイ」だとか「羊水を想起させるLCL」だとか「アンビリカル=へその緒」だとかの記号はエヴァを妊婦的に見せており、つまりエヴァが生き続けるということは、永遠に生きる妊婦の中で胎児は安全に生き続けられる、ということでもある。永遠に母の手の内から逃れられない子供、とも拡大解釈でき、若干怖い。
一方で新版のユイは、ゲンドウとともに槍に貫かれて死ぬ。
どんなに最愛の人であろうとも、その人の庇護がどんなに偉大なものであっても、旧版のユイのように永遠に生き続けて見守ってくれるというものではなく、人はいつか死ぬ。
ゲンドウも作中ではっきり言っていたが、大切な人の死を回避しようとするのではなく、いかに受け入れられるのか、仮に時間がかかろうとも糧とすることができるのか、といった問いかけが、ユイやレイ、ミサト、カヲル君の死を通して描かれている、と感じた。
ゲンドウの目的もこの結末に呼応するように「ユイに会いたい」から「ユイを見送りたい=死を看取ってやりたい」といった風に変わっているのも象徴的である。

まとめ

まとめると、シンジと各キャラクターの関係性の変化は、
旧版の「守る母と守られる子(赤子)、恋人=好きか嫌いか」といった直線的なものから、様々なアップデートを経て新版では「死にゆく親と看取る子、家族、共同体の中の他人やその家族」といった複雑なものに発展している様子を描いている、と捉えたりできる。
そうした複雑さをしっかり受け止めて消化できるようになったシンジの成長はとにかく感慨深いものがある。
これは庵野監督が歳をとったからかな、と思ったりもするのだが、どうもそれだけじゃないような気もする。
というのは思い返すとすでに、旧劇場版の終盤でシンジは複雑な関係性の中に飛び込んで生きたい、という意思表示をしているのである。


レイ「他人の存在を今一度望めば、再び心の壁が全ての人々を引き離すわ。また、他人の恐怖が始まるのよ」
シンジ「いいんだ。ありがとう」




あれから26年、シンジの変化をなんと表現するべきかは難しいが、シンプルに成長した、ということでいいだろう。
シンジと彼を取り巻く人間たちは、あのゲンドウも面と向かって「大人になったな」と言えるほどに、成長したのである。






~~~以下『進撃の巨人』漫画版最終話までのネタバレを含みます~~~






~~~以下『進撃の巨人』漫画版最終話までのネタバレを含みます~~~







~~~以下『進撃の巨人』漫画版最終話までのネタバレを含みます~~~






~~~以下『進撃の巨人』漫画版最終話までのネタバレを含みます~~~

『シンエヴァ』と『進撃』に共通する「家族」という概念

ここまで書いてくれば、『進撃の巨人』を最終回まで読破した皆さんはだいたいわかるかもしれないが、もう疲れたので箇条書きで要点だけ書いておく。
実際問題ここから先が本題といえば本題なのだがもたもたしてると10周年+1日という締まらないことになってしまうので断腸の思いである。
まあだいたいニュアンス伝わるっしょ。

・人が死ぬときにそばにいるのは、家族、医者、殺人者のいずれかである。
・ミカサにとってエレンは恋人ではなく、家族。
・家族とは何なのか、家族としてできることは何なのか。
・家族は、大切な者の死を看取ることができる。つまり大切な者に別れを告げることができる。
・このへんからぼんやりと拡大解釈すると、ミカサはエレンを家族だと定義できたがために、エレンを殺して「地鳴らし」を止め、ひいては初代フリッツ王への愛に縛られていた始祖ユミルを成仏させることができたのではないだろうか。
・なお進撃の巨人の世界観において人は無意味に死ぬが、その死を糧とし、生者が死者に報いることができる(報いなければならない)。ミカサもアルミンも世界平和のために頑張ってくれよな。
・脈絡ないけど、「世界は残酷だが美しい」っていう進撃の巨人でのセリフとシンエヴァで描かれるコア化と隣り合わせの第三村周辺の美しい風景ってなんか被るよね。






完全に尻切れトンボだがだいたい書きたいことは書いた気がするのでこのへんで。
進撃の巨人については単行本が出たらまた何か書いたりするかもしれない。
次の10年もstoicのポケモンGBAメモ帳をご贔屓くださいますよう。

*1:とくに『序』はほぼ旧版をなぞった物語である中で、リリス見学シーンは数少ない変更点になっている。

*2:このときリツコは「やっぱりな」という顔をしている

*3:『Q』ではこのようにシンジへの想いは仄めかす程度だったが、実際『シン』でリツコに「ほんとはシンジ君が戻ってきて嬉しいんでしょ?ウリウリ~」みたいな若干冷やかしトーンで露骨に指摘されている

*4:シンエヴァのラストで蓋の外れたエントリープラグがケンスケ宅のそばに不時着している様子が一瞬映っており、第十三号機から助け出されたアスカは無事にケンスケと再会できたであろうことが想像できる。同時にあの場所が無事だったってことはたぶんナントカカントカ装置はナントカインパクトを耐え抜いて第三村を守ってくれ、トウジたちも無事だったのだろうと思われる

*5:この結末に至れた背景にアスカのキャラ設定の変化もあるだろう、クローン人間だった、とか加持さんに全く興味を示さない、とか

*6:終盤で髪の伸びたレイは「つばめ」と書かれた人形を抱いているので、ちゃんと覚えていることがわかる